新道展の歴史

新道展創立の頃の1955年、日本は敗戦から立ち直り目覚ましい国土復興と経済成長が見られるようになった。そして美術界も急加速で動き出し、世界中の美術情報が大量に流れ込みだした。キュビスム、フォビズム、シュールレアリスムなど、絵画形式も抽象化の方向に傾斜し始めていた。

そんな中、菊地又男氏と義江清司氏の二人が中心となり、28人の創立会員を集め

「権威主義と技術主義に対抗し新時代的絵画表現とアンデパンダン的性格を目指す」というマニュフェストを掲げ1956年7月に新道展は誕生した。そして、第1回展は札幌時計台の南にあった産業会館で開催された。「質は高くなく雑然としている」という辛口の評価も受けたが、道展や全道展とはどこか異質で妙なエネルギーを感じさせた新しい公募団体は北海道の美術界に認識された。

しかし、その後の道のりは極めて厳しく展示会場の確保すらままならなかった。新道展が不安定な危機的状況から脱したのは1971年の第16回展あたりからだ。

そして、1975年20周年記念展を札幌市民会館で行った。菊地又男氏、高橋英生氏、橋本富氏らの創立会員に加えて園田郁夫氏、今荘義男氏、池田公一氏、香取正人氏らを中堅に若手では森山誠氏、阿部国利氏、藤野千鶴子氏、中村哲泰氏、鈴木秀明

氏が展示の核となって新道展らしい作品群が、他の公募展とは違った色合いを印象づけることができた。

1977年には道民待望の道立近代美術館が誕生し、北海道でもいよいよ美術館時代が幕を開けた。新道展の例年の展示会場である市民会館は、美術展の会場としては好ましいものではなく近代美術館を借用できることは願ってもないことだった。

しかし、この状況も5年間で終わり、1982年からは現在の札幌市民ギャラリーに移ることとなる。開館した市民ギャラリーは道内で最大の美術展覧会場であり、可動壁を含めると相当の展示容量を持つ施設で照明なども少しずつ改善されていった。

そして、新道展も第三の公募展という呼称は定着の感があったが出品者も入場者も徐々に増え充実の時期を迎えようとしていたわけだが、反面回を重ねるごとに組織が金属疲労を起こし作家同士の軋みも生まれてきたのもこの頃であった。中でも1982年はトップの罷免問題も含めて退会者を多く出した新道展にとっては最大の転機となった年である。ただ、その以後は様々な軋轢を乗り越えて会員相互の協力の中で民主的な運営がなされ、上下関係のない自由闊達な意見が飛び交う新道展らしい雰囲気が形成されていった。

さて、新道展は表現の自由を比較的早くから受け入れる努力を続けてきた。現代美術・インスタレーション・立体造形のジャンルを設け、限られた空間ではあるが公募展の枠を広げようと試行錯誤で取り組んできた。「新道展はコンテンポラリーの傾向が強いとも多彩だとも人は言う。しかし、この会の審査の観点、応募者への期待は『可能性の発見と制作意欲の啓発』にあると言える。したがって作品の完成度と技法には寛容だが、『構想と精神』には厳しい」(49回展北海道新聞展評より)

このような評価を受けて会員同士も切磋琢磨しながら様々な企画展を実施してきたのもこの頃である。会員の熱意あるコラボレーションが観客を巻き込んで成功した2000年開催の「ドローイング今・この空間展」などは忘れがたい記録である。

50周年、60周年記念展は道展・全道展と共に近代美術館で特別展を開催することが出来たことはまだ記憶に新しいのだが、この展示については他展とは違う独自性を出そうとインスタレーションや立体造形の作品を中心に展開し好評を博した。